家族に対する罪悪感を手放す

気づき

私には姉が2人いて、そのうち1人は両親と絶縁状態です。今の状態になってから、もうかれこれ3〜4年は経つかと思います。
(以下、絶縁状態の方を“姉”と表記していきます)

一方、私と親の関係はどうかと言うと、私も小さい頃から親(特に父親)に対する複雑な感情がありましたが、「人生を変える!」と決意し実践していく中で、関係は次第に改善し、今では感謝や思いやりをお互いに表現できる間柄になりました。

今回のお盆も、子どもと一緒に実家に帰省し、和やかな時間を過ごしていました。

そういう温かい時間を過ごすとき、
「(姉はこんな風に過ごせないのに)私だけ申し訳ないな…」
という罪悪感が、時折心をかすめる事がありました。

実際、「あなたは良いよね。」と、姉から感情をぶつけられたことも何度もありました。

あなたは両親から優しくされていいよね。
あなたは好かれてて、大事にされていいよね。…


彼女の中で消化しきれない怒りや悲しみが、言葉に込められていたと思います。

そういった経緯もあり、自分が親と良好な関係を築いていることに対して、罪悪感を覚えることがありました。

ただ、自分の信念や思い込みを捉え直していく過程で、ゆっくりと罪悪感が小さくなっていき、最近やっと「もう手放せた」と感じられるようになりました。

本当に幸せな人は、罪悪感を持たない

私はずっと、罪悪感があるのが普通の状態だと思って生きてきました。

紛争や災害の募金活動を見れば、恵まれている自分に罪悪感を抱き。


家業で家族が働いていれば、眠くてゴロゴロしている自分に罪悪感を抱き。


うまく人と付き合えない、周りに迷惑をかけた、こんな自分生きてていいのか、あの時もっとこうできたんじゃないか、ああできたんじゃないか…
あれこれ考える度に、罪悪感が際限なく現れる。辛いけどそれが普通だと。

でもスピリチュアルを学んでいく中で、罪悪感とは自然な感情ではなく、歴史や成長の過程で作られた感情であると学びました。

少し長いですが、バシャールからの引用です。

この文明では「憎しみ」が「愛」の反対語だと思われていますが、それは愛の反対側ではあっても、反対語ではありません。
真の愛の反対語は「罪悪感」です。
私のいう罪悪感とは、なにかバランスが崩れたときに、それを直さなければいけないというところからくる自然の罪悪感ではなく、自分自身の存在そのものを否定するような罪悪感のことです。
どんなに小さな「否定」だとしても、です。

ほんの小さな罪悪感でも、その人格全体を抹殺することができます。
ちょうど、ほんの少量の毒でも人間ひとりを殺せてしまうように。

(バシャールペーパーバック④、P16より引用)

以下は私なりの解釈になります。

例えば2人の人間がいて、第3者から何か貰ったとする。箱を開けると、片方は沢山、もう一方は少ししか中身がなかった。そこで多く受け取った方が
(相手に悪いな、自分の分を少しあげようか)
と感じるのは、バランスを取ろうとする自然な罪悪感。

でも自己否定の罪悪感は、私が感じていたような、「私が幸せになっていいのか(いや良くない)」と言うような、自分の幸福や存在を否定するような感情です。

こっちの罪悪感があると、愛や喜び、自由といった本来の方向へ、軽やかに進むことができなくなってしまいます。

それはほんの1滴であっても内側からチクチクと自分を痛めつけ、「自分は罰を受けるに値する存在だ」という信念を作り、辛い出来事を自ら人生へと引き寄せます。

つまり、思い切り幸せになることを自分に許せないし、嫌なことも引き寄せる。

自分の足を引っ張るし、悪いことまで降りかかる。

もう、最悪じゃん…🥲ネエ

自分の幸せと相手の幸せは、別のもの

私が不幸でいることが、姉の幸せを助けるわけでもないし、
私が幸せでいることが、姉を不幸にするのでもない。

自分の幸せに制限をかけることは、誰の何の助けにもならない。

もし相手がそれを苦しく思ったりするのであれば、それはこちらではなく、相手側の内面の課題なのです。

「私だけいいのかな」の罪悪感は、紐解いてみれば全く意味不明の、おかしな思い込みだったのです。

だからもう、幸せに制限をかけるのは辞めようと思います。

「誰にも遠慮せず自分の幸せや喜びを望み、それを心から味わっていい」
と自分に対して許せたことに、深い安心感を感じています。

今日も読んで下さり、ありがとうございます。

素敵なあなたが、澄んだ光としてますます輝けますように☆

それではまた。

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